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日本型教育は悪なのか?アメリカ型教育と比較して考えてみた

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日本の教育はおかしい、とみな口々に言う。


偏差値や学歴礼賛はおかしいという議論は、今まで散々なされてきただろう。英語教育に至っては、もうもはや何がしたいのか分からないようなカリキュラムが少し前まで組まれいた。


そんな日本型の教育に違和感を抱く人たちの中に一定数、「アメリカ型教育」なるものにあこがれを持つ人たちがいるのではないだろうか。アメリカ型教育のほうが、コミュニケーション能力がつきそうとか、偏差値等を度外視して個人の資質そのものを伸ばせそうなどのなんとなくのイメージがある人が多いと思う。


今回は、実際にアメリカ型教育を受けてきた所感をもとに、改めて日本型教育は悪なのか、ということについて考えてみたことを書いてみた。

アメリカ型教育とはなんなのか

まず、アメリカ型教育とはなんなのか、ということを確認しておこう。

ここで語るのはあくまで、調べて得た情報と僕が実際に体験してきたものを総合したものだ。当然アメリカにも学校はたくさんあるので、どこかの学校では正規のカリキュラムに縛られない画期的な教育法があるのかもしれないが、あくまで一般の認識ということで話していく。

一般に、アメリカ型教育は、日本型教育に比べて。”個性重視”などと言われる印象があるかと思う。例えば、以下のような話がある。

まず大きな違いが「アウトプット方法」です。日本の教育では、物事の事象や現象の名前、順序など、覚えたものをそのままアウトプットをする機会が多いように感じます。

それに対してアメリカの教育では、明確な答えを知る前に自分で考えたものをアウトプットすることが多いのです。言い方を変えると、覚えたり習ったりする前にまずは「どうなっていると思うか」が問われ、それ以前の知識や自分の想像を使って答えるような課題が出されることが多いのです。

出典:https://www.compathy.net/magazine/2015/06/15/education-style-in-japan-and-us/

アメリカ人は、昔から、個人の思ったことはすぐ口にできるような教育を受けるし、それができる環境で育つ。家庭でも学校でもだ。

たとえとんちんかんな発言をしようとも、すべての発言をみなが肯定するような雰囲気があるし、それをもとにどんどん話が広がっていく傾向にあるかと思う。

そういった、個性的な発想がすぐにアウトプットできてしまうというのが、アメリカ型教育の特徴だろう。

また、大学受験に関しての違いも顕著だろう。

私自身が最も大きな違いとして感じているのは、日本ではプロセスがあまり重視されないのに対し、アメリカではプロセスが評価に対して大きな影響力を持っているという点です。

例えば大学受験では、アメリカの場合高校生活での授業全ての成績が評価対象になるので、途中で大きなミスをしてしまうと、いい大学へ進学ができなくなってしまいます。逆に、常に努力さえしていれば有名な大学への進学はそれほど難しくはありません。

日本の場合は、大学へ提出する成績は1年分だけでいい場合が多く、入学試験でいい点を取れば取り返しがきくということも少なくありません。その一方で、大学受験当日に体調を崩し、本来の実力が発揮できずに学力に見合う大学へ入れなかったということも起こります。

出典:https://www.compathy.net/magazine/2015/06/15/education-style-in-japan-and-us/

まぁアメリカの大学受験といっても、いろいろある。多くは、SATというセンター試験のようなものを受け、そして高校時代の評定平均、そして面接を通して決めるというものが多いようだ。この形式を見ると、確かに日本よりプロセス重視なのかもしれない。


多くを引用に頼ってしまったが、まぁアメリカ型教育の大きな特徴として浮かぶのは、この辺だろう。特に、アウトプットがしやすい環境というのは、だれもがすんなり受け入れられるイメージなのではないか。


この二つの特徴が、アメリカ型教育が個人の資質を伸ばせるかもしれないという、一般のイメージの根拠なのではないかと思う。


少なくとも、偏差値という判断基準に大きく頼った大学受験の方式を採用していない。

あれ、アメリカ人って、バカなんじゃないか...?

一年前くらいに、アメリカ人ってバカばっかだぜという内容の記事を書いた。未だに弱小ブログの域を抜けられない当ブログの中でも、一応は人気記事である。

www.longhardroadout.com

 
この記事では、筆者がアメリカの大学で目の当たりにした信じがたいバカな光景をまとめた。数学が壊滅的にできないとか、話を聞かないとか、そんな「話を聞いていればできる」レベルの事が、彼らはできない、ということを書いた。


そもそも、「あれ、アメリカ人ってもしかしてバカなんじゃないか…」という事は、数字で示されている。

 

アメリカの子供たちが他国の子供たちに比べ、テストで良い成績を残せていないことはよく知られていますが、これは大人も同じようです。

20の国と地域で行われた「大人用学力テスト」は16歳から65歳の大人157,000人を対象に3つの項目、「数学」「読む力」「問題解決能力」を測るために実施されました。

その結果、アメリカはすべての項目で平均以下のスコアとなりました。1位はすべての項目で日本、また2位も3つ全てでフィンランドでした。

各項目のトップ5は以下の通りです。

数学     
1位  日本     
2位  フィンランド
3位  ベルギー
4位  オランダ
5位  スウェーデン

読む力
1位  日本     
2位  フィンランド
3位  オランダ
4位  オーストラリア
5位  スウェーデン

問題解決能力
1位  日本
2位  フィンランド
3位  オーストラリア
4位  スウェーデン
5位  ノルウェー

出典:http://golden-zipangu.jp/usa-test/

こちらの記事の大元のソースはこちらである。

www.dailymail.co.uk

読んでいただければわかると思うが、もう単純に、アメリカ人は平均的に学力が低いのである。

 
しかし、学力が低いからといって、バカだという事にはならない。バカとはいろんなことを意味すると思うが、学力だけでバカだと決めつけるのはおかしい。

 
しかし、この学力の差というのは、どういう光景として現れるのか、そして、英語がわかる日本人はどういう感想を抱くのか。それを過去に書いた「留学行って思ったけど、アメリカ人って正直バカだと思う」に書いたのである。
 

”やってられるか”と思った

やはり、こういう話は、読むのと目の当たりするのとでは大違いだと思う。


私は、アメリカの四年制大学に期待を持って編入した。今まで明言するのは避けていたが、もうこの際はっきり言おう。別に期待していたほどではなかった、というのが、実際の感想である。


前回の記事にも書いたが、彼らアメリカ人は、話を聞かないのである。これが、とにかく一番驚いた。頻繁に質問をするところはさすがだと思うが、「いや、それ、さっき言ってたよ?」という事が数え切れないくらいある。もしかして、アメリカ人って耳という感覚器官を持っていないのか?と思った事もある。クリリンに鼻がない事が判明して以来の衝撃だ。


最初の方は、それで良かった。英語にも不慣れだったし、これくらいのレベルで良かった、と胸を撫で下ろした。そして、今後はもっとレベルが上がっていくと思うから、その時には対応できるようにしなければ、と思ったのだ。


しかし、時が経ち、ハイレベルのクラスを受けていても、彼らはクリリンのままだった。最初はそれで良かったが、1年、2年と経ち、それが許容できなくなった。


前回の授業で、教授が最後に言ったことは、漏れなく聞いていない。故に、それを応用してやる問題やリサーチなどで、避けられるミスを犯す。彼らと私の違いはただ一つ。聞いていたが聞いていないかだ。


ある時、経済学の授業のプレゼンテーションで、私がクラスで一人だけ満点を取ったことがある。一応言っておくが、私は別に、プレゼンテーションはさほど得意ではない。英語の流暢さ(Fluency)などが評価基準に入ってくると、私の評価はいつもB-くらいだった。


しかしその時は、クラスで唯一満点を取った。のちにプロフェッサーにフィードバックをもらいに行ったが、私が満点を取った理由は「聞かれたことに答えていたから」だそうだ。


そのプレゼンテーションはでは、事前に調べておく項目がリストにまとめられていて、その質問に答えていく形式でプレゼンテーションを展開していけばいい。私はそれを、愚直にやっただけだ。


私が一人だけ満点だったということはすなわち、ほかの生徒は「聞かれたことに答えず、好き勝手に調べてきた内容を並べ立てていた」ということになる。
 

こういう事が続くと思うことは、”やってられるか”、である。真面目に授業を受けるのがバカらしくなってくるのだ。あんなに話を聞いていなくとも、単位が取れる海外大学のシステムにも疑問が浮かぶようになる。私は単位さえ取れれば良いというタイプだったので、次第に力を抜くようになっていく。


そして段々と、テキトーに授業を受ける、あるいはサボるようになっていく。こうなってきたら、もう終わりだ。私は、適度に歯止めをかけられるタイプではなかった。私の留学生活が音を立てて崩れていくのを感じた。

偏差値というシステムがダメ、というけれど

アンダーマッチング(Undermatching)という現象を聞いたことがあるだろうか。日本では、あまり浸透していない言葉だ。日本語でググったら、溶接作業の際に使用される技術の一つとしてこの名前があるらしいが、もちろんここでの意味は違う。

 

しかしボーエンら三人がデータをよくよく観察してみると低所得層の学生が大学を選ぶときに無理をして背伸びしているわけではないとわかった。それどころか、実際には彼らの多くが自分の評定平均や共通テストの結果よりずっと低いスコアで入れる大学を選んでいた。ボーエンらが「アンダーマッチング」と名づけたこの現象は、裕福な学生の間ではあまりみられなかった。不利な状況にある生徒に限定された問題だった。三人がノースカロライナ州でほぼ完全なデータを集めて分析したところ、州の一流公立大学に入れる学力を持った富裕層の学生の四人に三人がその通りに進学した。彼らにとってはシステムがきちんと機能していた事になる。しかし同等の優秀な成績を修めながら、親が大卒者でない生徒の場合には、三人にひとりしか一流大学に進学しなかった。しかも、難易度の低い大学を選んだからといって、こうした学生たちが大学を卒業する確率があがるわけではなく、むしろ逆効果だった。

「成功する子 失敗する子 ― 何が「その後の人生」を決めるのか」 ポール・タフ著/高山真由美 訳229、230Pより引用


www.youtube.com


つまりアンダーマッチングとは、実際の自分の学力レベルより低い学校を進学先として選択する、ということである。動画でも話されているように、これは逆に大学を中退する可能性を高めるということで問題視されているようだ。あまり裕福でない家庭出身の子供が、確実に卒業できるようにと、このような選択をするのだろう。また、このことはアメリカの奨学金制度にも由来する。が、そのことが逆にドロップアウトの可能性を高める、ということである。

アメリカの貧困問題というのは、日本のそれよりはるかに深刻だ。だから、貧困関連の問題というのは、人々の関心が集まり、よく取り沙汰される。貧困と学歴、などを絡めた問題の解決というのが問題に上がりやすいというのは、そういう背景もあるだろう。

しかし、とりあえず日本では、こういう問題はあまり聞かない、という印象はないだろうか。これは、日本の大学受験が、個人の人間性などを考慮しないという面はあるが、試験という完全な実力主義で合否を決めるからだろう。自分が進学した大学のレベルが低い、と思っても、そこしか受からなかったんだからしょうがない、としか言われない。


アメリカのように、面接なども採り入れて個人の人間性まで判断材料にするようなシステムのほうがいいという人もいるだろうが、それはそれで、アンダーマッチングのような問題を生む。そう考えると、日本の大学受験というシステムは、これはこれでうまく機能しているのではないか、と思ったりする。

日本型教育は”悪”なのか

確かに、日本の教育は、完ぺきではないだろう。偏差値や学歴礼賛、どうしようもない英語教育、問題は山積みだろう。高校までで、何の役に立つかわからない教養をひたすら詰め込む。早期英語教育なんかも、本当に必要なのか、とか思ったりする。いや、必要なのかもしれないが、なんというか、国が何らかの確固たるエビデンスをもって決めた教育政策だ、みたいな印象がない(昔からそうだけど)。なんというか、世のお母さんたちのご機嫌取りで教育政策を決めているんじゃないか、という雰囲気が昔からある。教育に関してはあなた方のほうが一応専門家なのだから、世のお母さま方がなんぼのもんじゃい、という話なのに。


まぁ要するに、僕も割と、日本の教育にはあきれている。


しかし、かといって、アメリカのような教育スタイルにするのどうかと思う。


日本の教育はおかしいと思い、(他にも国はあるのに)アメリカ型教育になぜか幻想を抱く人もいると思う。しかし、上で紹介した記事で語られている通り、アメリカはアメリカで、明らかに自国の教育はヤバいのではないか?と悩んでいる。「やべぇ、国民がバカすぎるw」と。


楽にアウトプットができ、自由な発想が潰されにくい、というのは、アメリカ型教育の最大の長所だろう。そこはいい。だが、話を聞いていないのは何なんだろうか。聞き逃すことは誰でもあるが、そもそも聞く姿勢というのを持っているのだろうか。常に、自分が自分がで、相手の話を聞いていない雰囲気が、彼らにはある。僕がいた大学では、聞いていないにもほどがある、というのを何度も、何度も感じた。少なくとも、大学生一般レベルでは、やはりアメリカ人はバカっぽい、と感じざるを得ない。


日本型教育の弊害は、みなすぐに挙げられるほどパッと思いつくだろう。しかし、避けられるものは避けられたのではないか。


偏差値礼賛など、別に抜け穴などある。ビリギャルみたいに私立文系にして受験科目を減らすとか。そもそも大学なんて、必ず進学するべきところではない。専門学校とかいろいろあるだろう。大学のような、もはや形骸化した最高学府(笑)で勉強することに、なぜこだわるのか。就職の際の学歴フィルターにしてもそうだ。確かに存在はするし、大企業の一部には、学歴が振るわないだけで選考すら受けられないところもあるだろう。しかし、全部が全部そうではない。学歴を覆して大企業に受かった人なんていくらでもいる。大学で学ぶことなど社会で約に立たないと多くの人が思っているはずなのに、なぜ学歴にこだわるのか。


つまり、日本型教育が役に立たないなら役に立たないで、それに費やすリソースを最大限に減らして好きなことをやればいいだけの話ではないのか。または、自分の子供にそう教育するとか。いろいろできることはあるだろう。


日本型教育の、避けるべきところは避けて(または自分の子供をそのように導いて)、身に着けるべきところは身に着ける。それでいいのではないか。身に着けるべきところは、本当にいろんなところで約に立つと思う。話を聞く、傾聴する能力とかね。僕は少なくとも、「こいつら、バカなんじゃないか... 」と思ったアメリカ人のようには、なっていないのではないか、と思う。結論、僕はアメリカに行って、日本で教育を受けて本当に良かった、と思ったわけです。


長くなりましたが、これが僕の「日本型教育は悪なのか」というテーマについて思ったことです。